2019年7月6日、後藤洋央紀はデビュー16周年を迎えました。
令和最初のG1クライマックスでは怨敵ジェイ・ホワイトを葬り、
試合後にあの名言「G1の”G”は後藤の”G”」と声高に叫びました。
それを見た解説者、ミラノコレクションA.Tは興奮気味にこう言い放ちました。
「勢いづいた時の後藤選手は手をつけられないくらい強いんです。G1優勝もありえます。」
そう思ったのは、ファンも一緒だったのではないでしょうか。
呼応するようにファンも叫んだ「後藤の”G”!」コールの大きさが、後藤への支持の高さを物語っていました。
IWGP王座挑戦の7回連続失敗というワースト記録を持ち、幾度となくファンの期待を裏切り続けた後藤。
にも関わらず、なぜ後藤は今もなお支持されているのでしょうか。
僕の視点から歴史を辿りつつ、後藤の魅力に迫っていきたいと思います。
学生時代から新日本プロレス入団まで
後藤洋央紀は1979年6月25日生まれの現在40歳。
生まれは三重県桑名市、桑名市立光風中学校時代はソフトテニス部に所属していました。
レスリングとの出会いは高校からです。
三重県立桑名工業高校に進学し、柴田勝頼に出会います。
柴田とレスリング部を立ち上げ、ともに汗を流しました。
高校卒業後、新日本プロレスに入団をする柴田とは袂を分かって、
後藤は国士舘大学に進学し、レスリング部に所属します。
大学のレスリングでは、上位入賞を果たし結果を残します。
入団と再入団
【画像:左から安沢明也、山本尚史(現ヨシタツ)、長尾浩志、田口隆祐、後藤洋央紀】
大学卒業後、2002年4月に新日本プロレスに入団。
同期には中邑真輔、田口隆佑、山本尚史(現ヨシタツ)、長尾浩志という、全員が長身という身体に恵まれているメンバーに囲まれ練習生時代を過ごします。
そんな折、後藤は肩を脱臼する怪我を負い、デビューを待たずして新日本プロレスを退団します。
出鼻をくじかれたものの、リハビリを経て新日本プロレスが経営する闘魂ショップに併設されている道場でトレーニングを積み、同年11月に入門テストに挑戦し、再入団を果たします。
”新日本プロレス四天王”に上り詰めるまでの6年間
翌2003年7月、同期の田口を相手にデビューを飾ります。
同期の誰よりも遅いデビューだったが、
その後誰よりも早く栄光を手に入れ、”新日本プロレス四天王”の1人になるまで上り詰めていくのでした。
ヤングライオン杯優勝とベルト奪取
翌々2005年3月、ヤングライオン杯で優勝を果たします。
同年4月、実力を買われた後藤は飛ぶ鳥を落とす勢いのヒールユニット「C.T.U」に勧誘され加入をします。
【画像:C.T.Uメンバー】
天然キャラを見出され、先輩レスラーの獣神サンダー・ライガー、邪道、外道らを差し置いてリーダーとして活動。
翌5月には田中稔と組み、金本浩二&井上亘組を破りIWGPジュニアタッグ王座に初栄冠。
デビュー2年足らずでベルトを奪取してのけたのです。
勢いをそのままに、同年12月には棚橋弘至が持つIWGP U-30無差別級王座に挑戦するも敗戦します。
【IWGP U-30無差別級選手権試合 棚橋弘至 VS 後藤洋央紀】
海外遠征
翌2006年4月からはアメリカのTNAに海外遠征。そして、8月にはメキシコへ無期限武者修行に出発します。
【画像:メキシコ修行時代】
翌2007年3月、ウルティモドラゴンやTAJIRIらが参戦した闘龍門MEXICO自主興行で行われたトーナメント「YAMAHAカップ NWAインターナショナルJrチャンピオンシップトーナメント」に参戦。
決勝でショッカーを破り見事優勝。22年ぶりに復活したNWAインターナショナル王座に戴冠をするなど、海外で結果を残します。
凱旋帰国
1年4ヶ月の海外遠征を経て、2007年8月に凱旋帰国。
海外修行前の好青年でジュニアの体型から一変、体重を103キロの増量し長髪オールバッグに髭を蓄えた太々しい風貌になります。
同年10月、かつて付き人を務めていた天山広吉と対峙。
試合を掌握し必殺技に携えた昇天をズバリと極め勝利。
帰国後の初シングルでかつて付き人を務めていた師匠超えを早くも達成します。
ちなみにこの試合で、後藤が繰り出した変形パックブリーカーで猛牛・天山広吉の頸椎を負傷させ長期欠場に追い込んだ経緯から、その技が「牛殺し」と名付けられました。
翌11月、両国国技館大会で棚橋が保持するIWGPヘビー級王座に挑戦。
この時期、新日本プロレスは久しく集客に苦しんでいました。
両国国技館のフルキャパ11,000人に対し、この日の客入り数は僅か2,000人だったそうです。
にも関わらず、まるで超満員かのような大歓声が起こり新日本プロレスに久しぶりの熱狂空間が生まれました。
後にこの試合は、「新日本プロレスが復活の狼煙を上げたベストバウト」と称されました。
敗戦を喫するものの、それほどこの頃の後藤は手をつけられない存在になっていたのです。
勢いが頂点に達するRISE時代
その試合後、後藤は中邑真輔が立ち上げたユニット「RISE」に加入。
稔(現・田中稔)、ミラノコレクションA.T.、プリンス・デヴィッド(現フィン・ベイラー)らと行動を共にします。
翌2008年1月4日東京ドーム大会にて、7年8か月ぶりに新日本プロレスに降臨したグレート・ムタ退治に挑みます。
しかし、ムタの世界観に呑まれ敗北を喫します。
同年8月G1クライマックスに初出場。
「初出場・初優勝を狙います」と声高らかに宣言。
決勝戦で真壁刀義を破り公約通り見事優勝を果たします。
デビュー5年1ヶ月でG1を優勝するという史上最短キャリアの記録を打ち立てます。
未だに破られていないこの記録こそが当時の後藤の勢いを映し出しているのです。
同月、G1優勝の栄冠を引っ提げ、IWGPヘビー級王座を保持する武藤敬司に挑戦するため全日本プロレスに乗り込みます。
しかし、奪還に失敗します。
翌2009年3月ニュージャパンカップでは、決勝で永田裕志を破り昨年のG1優勝に続き春夏連覇を果たします。
この偉業を機に、後藤は当時新日本プロレスを引っ張っていた棚橋、中邑、真壁とともに”新日本プロレス四天王”と称されるようになったのです。
暗黒時代から抜け出そうと藻掻く新日本プロレスにとって、後藤の存在は一筋の光だったのです。
IWPGヘビー級王座挑戦7回連続失敗のワースト記録
しかし、希望の光から一転、後藤のプロレスキャリアは徐々に雲行きが怪しくなっていくのでした。
それは、後藤のIWGP王座挑戦7回連続失敗のワースト記録から見ることが出来ます。
【1度目】
2007年11月、王者棚橋に挑むも失敗。
【2度目】
2008年3月、王者武藤にチャレンジするも敗戦。
【3度目】
2009年5月、合気道を習得し王者棚橋を相手に善戦するものの奪還失敗。
【4度目】
2010年3月、ニュージャパンカップを前年に続き優勝。
春男の称号を手に入れ翌4月、IWGPヘビー級王者中邑に挑むもまたも敗れる。
【5度目】
2011年6月コスチュームを黒の袴姿にチェンジし、新たな入場曲を引っ提げ王者棚橋とIWGPヘビー級王座をかけ対戦。
しかし、敗北を喫する。
【6度目】
2012年4月、ニュージャパンカップに3度目の優勝を果たしIWGP挑戦権を行使。
オカダ・カズチカと対峙するも、あと一歩届かず敗戦。
【7度目】
2016年2月、オカダが持つIWGPヘビー級王座に挑戦。
白いコスチュームに全身写経のぺイントを施した姿に変身し、不退転の覚悟で挑むも奪還失敗。
ファンの期待を裏切り続け、終いには7回連続失敗のワースト記録を樹立してしまいます。
2007〜2010年にかけては4度挑戦しているのに対し、2011〜2019年にかけては2度の挑戦に留まっています。
挑戦頻度の低下からも、IWGPヘビー級王座から遠のいていることがうかがい知れます。
しかし、今でも後藤は諦めていません。なぜそこまでして諦めないのでしょうか。
以下のインタビューでIWGPヘビー級王座への思いを語っています。
※注釈:動画内ではワースト記録8回と表記されているが、残りの1回をどこで挑戦しているのか不明です(・・;
「勝ちます、獲ります、何回言ってきたんだろう。2番じゃダメなんです。昔からそうだったんです。昔からアマチュアレスリングの県大会とかで必ず強いやつがいて、いつも2番だったんです。そこから突き抜けたいですね。変わりたいっていうよりも突き抜けたい。人生をかけているから」
上記の言葉を物語るように、後藤は確かにIWGP奪還に向けてあらゆる努力をしているのです。
後藤の努力
後藤の努力は次のようなことから見て取れます。
IWGP戦線以外で活躍
後藤はIWGPヘビー級王座戦線で活躍は出来ないものの、他の栄光を手に入れています。
■IWGPインターコンチネンタル王座戴冠回数2回
■NEVER無差別級王座戴冠回数4回
■IWGPタッグ王座戴冠1回(パートナーは柴田勝頼)
■IWGPジュニアタッグ王座戴冠1回(パートナーは稔)
■G1クライマックス2007年優勝
■ニュージャパンカップ2009、2010、2012年優勝
■ワールドタッグリーグ2012(パートナーはカール・アンダーソン)、2014(パートナーは柴田勝頼)年優勝
特筆すべきはNEVER無差別級王座戦線での活躍です。
2017年から2018年にかけて、後藤はNEVER無差別級王座を何度か落とすものの王者政権を築き上げます。
相手にしたのは鈴木みのるにマイケル・エルガン、ジェフ・コブ、タイチといった決して侮れない強豪揃い。
特に鈴木みのるとの戦いでは、ランバージャックデスマッチや敗者髪切りマッチなどを行い、大いにNEVER戦線を盛り上げました。
一度決めたら諦めない
後藤は、IWGPヘビー級王座に限らず一度決めたら諦めません。
例えば、プロレスリングNOAHの杉浦貴との一連のストーリーが挙げられます。
2009年5月東京ドーム大会にて、プロレスリングNOAHとの対抗戦で、後藤は岡田かずちか(現オカダ・カズチカ)をパートナーに杉浦貴&青木篤志を相手の対峙したことからストーリーは始まります。
この試合でオカダが杉浦のオリンピック予選スラムに撃沈します。
同年6月、リベンジするために後藤は杉浦とのシングルマッチを挑むも敗戦します。
これを機に新日本のプロレスの威信をかけた「打倒・杉浦貴」を目標に掲げます。
しかし、同年8月のG1クライマックス公式戦にて杉浦に敗戦。
翌2010年1月東京ドーム大会、杉浦が持つGHCヘビー級王座に挑戦。またも敗戦し3連敗。
それでも諦めない後藤は翌年2011年、タマ・トンガをパートナーに杉浦&橋誠組と対戦。
橋を昇天・改で破り、タッグマッチながらリベンジ成功。
本丸にリベンジを果たすために、翌年2012年1月東京ドーム大会にて杉浦とシングルマッチ。
4度目にてようやくリベンジ成功を果たし、約2年半に及ぶ”打倒・杉浦貴ストーリー”に終止符を打ちます。
後藤はベルトに絡まない戦いでも、一人ずつ確実に相手を倒す努力を重ねていきます。
侮辱を力に変える
後藤は侮辱されても、それを力に変える強さを持っています。
例えば、2016年1月東京ドームで組まれた内藤哲也とのシングルマッチでの際は、前哨戦で内藤に「キャプテン・クワナになれ」と皮肉られます。
これは当時、不調だった後藤のことを「まるでお前は最弱のレスラー、キャプテン・ニュージャパンと同レベルだな」という皮肉を込めて、後藤の出身地桑名を入れてキャプテン・クワナと名付けました。
しかし、そんな侮辱の屈せず見事勝利を収めます。
また、2015年中邑真輔とのインターコンチを巡る攻防でも後藤は侮辱されていました。
当時IWGPインターコンチネンタル王者にも関わらず発信力のない後藤に対し中邑は「透明人間」と揶揄します。
さらに、それに対し無反応の後藤を見て中邑は、「バカにしても動じない様はまるでバカ殿だ」といじり倒します。
しかし、それでも動じず後藤は中邑とのインターコンチを巡る戦いを制していきました。
試行錯誤の数々
また、後藤は試行錯誤を惜しみません。
2009年5月、3度目のIWGPヘビー級王座挑戦の際は、「チャラチャラした軟弱者を合気で制す!」と意気込み合気道を習います。
また、2016年7度目のIWGPヘビー級王座挑戦の際は、白いコスチュームに全身写経のぺイントを施した姿に変身し、何かを変えようとする姿勢が見えました。
さらに、翌3月ニュージャパンカップ前には、IWGPヘビー級王座挑戦連続失敗ワースト記録を樹立した自分を払拭するために、滝行を施行。
その成果が現れたのか、ニュージャパンカップでは準優勝をします。
記憶に新しいのはジェイ・ホワイトとの一連のやりとりでしょう。
2019年4月にジェイ・ホワイトとシングルマッチを組まれ、「後藤は終わっている」とののしられ敗戦。
その後、打倒ジェイホワイトを掲げLA道場に短期間の修業に出向きます。
同級生の柴田の指導の下、厳しい練習に耐え、絞られた体と鋭い蹴りを身に付けてじくちたる思いでG1に出場。
怨敵のジェイ・ホワイトに勝利します。
これらは大きな成功には繋がっていないものの、常に模索し続ける後藤の努力を惜しまない姿勢が見えます。
後藤の魅力
IWGPヘビー級王座奪還に向けて努力を惜しまない後藤の姿勢は、奇しくも後藤の魅力に円熟味を与えていっているように思います。
レスラーとしての後藤の魅力
後藤は1番である称号”IWGPヘビー級王座”への挑戦に何度もこぎつけ、「勝ちます!獲ります!」と宣言しても、奪還するまでには至っていません。
何度もファンの期待を裏切っています。
そのカッコ悪く不器用な様は、まるで「届きそうで届かない人生」を体現しているかのようです。
確かに、オカダ・カズチカのように努力した結果が実を結び、人生を闊歩する姿はかっこいいです。
しかし、現実を見渡してみると全ての人がそのような華やかな人生を歩むとは限りません。
多くの人は、後藤のように「目標に届きそうで届かない人生」を試行錯誤しながら歩んでいるのではないでしょうか。
そんなファンが後藤の姿に自分を重ねて見ているように思います。
そして、いつしかファンの共感を持てるレスラーになっていると言えるでしょう。
「プロレスラーとしての1番」にはなれていなくても、「ファンにとっての1番の代弁者」になっているのです。
そう、これこそが後藤の最大の魅力なのではないでしょうか。
一人間としての後藤の魅力
また、後藤の人柄も支持を後押ししているように思います。
YOSHI-HASHIとやり初めた“すしざんまい”ポーズをはじめ、
凱旋帰国後のEVILを渡辺!と叫び、EVILの正体を渡辺高章であることを早々とバラす天然ぶり。
EVILとのシングルマッチに巨大な数珠を持って除霊に挑む姿は、話題作りの一貫としてやっているのかもしれないが、あまりに真剣な姿勢で挑むものだから、得も言えない可愛らしさを感じます。
そして、極めつけは飯伏幸太との「押してダメなら引いて見る戦法」を戦いの場に持ち込む発想の豊かさです。
IWGPヘビー級王座への熱い気持ちの一方で持ち合わせている緩い一面が後藤の魅力にプラスになっているのではないでしょうか。
終わりに
プロレス界は栄枯盛衰の世界であり、ファンからの注目は永遠ではありません。
後藤は今年40歳。これからを考えると体力の衰退は不可避です。
時間の猶予は限られているでしょう。
今まで、白塗りや滝業、LA道場での修行など、矢継ぎ早の改革は行ってきたものの最終目標のIWGPヘビー級王座にはたどり着いていません。
後藤に求められているのは小手先ではない根底からの改革なのでしょう。
そのための道しるべが何なのかは分かりません。
でも、不思議かな。
僕は、根拠のない「今度こそ」を後藤に期待してしまうのです。
それは後藤が「ファンにとっての1番の代弁者」だからです。
後藤の夢はファンの夢と言っても過言ではありません。
どうか、夢物語で終わらせず、僕らファンにとっての希望の星であってほしいのです。
【次回予告】
次回はYOSHI-HASHIの「過去・現在」に迫っていきます。
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