コロナ禍でプロレス界が大打撃を受ける中、大躍進を遂げた女子プロレス団体が存在します。
そう、「スターダム」です。
「スターダム」は、2019年にブシロードが買収した時点では年間売上約2憶円だったのが、2021年度決算では約5億円まで伸ばしています。
コロナ禍にも関わらず、売上を2.5倍に成長させています。
売上だけでなく、リング上の闘いも熱気を増すばかりです。
そんな「スターダム」を見て、たまにもどかしさを感じることがあります。
それは、ロイヤルランブルで長与千種や下田美馬などのレジェンドと言われる女子レスラーが出場した際、見方が分からない時などです。
これは、僕が長い期間、女子プロレスを見ていないため、レジェンドレスラーとその他のレスラーとの関係性が見えないのが原因です。
男子プロレスは、20年以上見ているためこのようなケースでも関係性が分かるので、見方が分かります。
しかし、「スターダム」の場合、女子プロレスを見て歴史が浅く分からないため、見方が分かりません。
なので、たまにもどかしさを感じるのです。
このもどかしさを払拭するために、女子プロレス団体の系譜について調べてみました。
しかし、ネット上に見つかりませんでした。
ですので、調べ上げて女子プロレス団体の系譜を作ってみました。
本記事では、女子プロレスの起源に触れた上で、女子プロレス団体の系譜・歴史について【前編】【中編】【後編】に分けて解説していきます。
女子プロレスの起源
女子プロレスの起源は記録に残っていないといわれています。
それは、男子プロレスとは異なり、ショーの要素が強かったことが理由です。
ただし、最古の記録は残っています。
それは、1906年3月19日、アメリカ・ニューヨーク州のバッファローにあるラファイエット劇場でアメリカの女子プロレスラー、コーラ・リビングストンが、ローラ・ベネットを破り世界の女性チャンピオンになった試合です。
タイトル名は不明です。
このことから、アメリカでは1900年代から女子プロレスが存在していたようです。
ただし、日本の女子プロレスはそこから派生したものではありません。
日本の女子プロレスの起源
日本の女子プロレスの起源は、ボードビリアンで音楽家の「パン猪狩」という人物とされています。
【パン猪狩】
引用元:https://www.toudoukan.com/@en/page/$/page_id/3761/
戦後間もない1948年2月、パン猪狩は弟と一緒に、東京都三鷹市に小さな道場を構えます。
道場を設立した目的は不明です。
パン猪狩は柔道、弟はボクシングとプロレスのセコンドに就いていた経験があり、それを女性7~8人に教えます。
そして、京都大映で進駐軍(第二次世界大戦後、日本に進駐した連合国の軍隊)向けにプロレス興行を行い、大当たりしたのです。
とはいえ、当時のプロレスは、ガーターを奪い合うガーターマッチなど、現在でいう「キャットファイト」のような、お色気要素が強いものだったといわれています。
興行を行った会場も、キャバレーやストリップ劇場などが中心だったようです。
現在の日本の女子プロレスとは大きくかけ離れるものでした。
現在の日本女子プロレスの起源
では、現在の日本の女子プロレスは、どこから始まったのでしょうか。
1940年台後半、プロレスは国民的スポーツになっており、力道山プロレス全盛期の時代でした。
力道山は、男子プロレスとかけ離れたお色気要素の強い女子プロレスを好ましく思っていませんでした。
そこで、1950年、力道山の働きかけで、警視庁から禁止令が出され日本から女子プロレスが消滅します。
しかし、4年後の1954年11月に転機が訪れます。
在日米軍慰問を目的に、WWWA世界シングル王者のミルドレッド・バークと、NWAフロリダ女子王座のメイ・ヤングなど、当時のアメリカ女子プロレスのトップ選手が来日興行を行います。
蔵前国技館などの大会場で満員の観衆を集めます。
【画像上がミルドレッド・バーク:下がメイ・ヤング】
それを受け、翌1955年9月10、11日、両国メモリアルホールで「全日本女子プロレスリング王座決定トーナメント」が開催されます。
同トーナメントで、猪狩定子と田山勝美組が女子タッグ初代王者になります。
これが、現在に受け継がれる日本女子プロレスの起源といわれています。
同トーナメントの盛り上がりをきっかけに、1955年頃に「東京ユニバーサル女子プロレスリング団」「全日本女子レスリング倶楽部」「全日本女子プロレス協会」「東洋女子プロレス協会」「広島女子プロレスチーム」など、多くの女子プロレス団体が誕生します。
【「全日本女子プロレス協会」が発行した女子プロレスラー名鑑】
引用元:https://colaboy.ocnk.net/product/4304
女子プロレス団体の系譜
その後の女子プロレス団体の系譜は、上記の通りです。
1967年、「全日本女子プロレス協会」でレフェリーとコーチと務めていた松永高司と、柔拳創始者の中村守恵が中心となり、乱立していた女子プロレス団体をまとめ、「日本女子プロレス協会」を設立します。
しかし、最初のシリーズ後、松永と中村が方向性の違いで対立。
「日本女子プロレス協会」は、”松永派”と”中村派”に分裂します。
翌1968年、”松永派”は「日本女子プロレス協会」を脱退し、松永が設立した新団体「全日本女子プロレス」に移籍。
”松永派”の「全日本女子プロレス」と”中村派”の「日本女子プロレス協会」の分断は、現在まで続く女子プロレス団体の乱立の始まりでもあるのです。