「あいつ、今が一番楽しいだろ。全て自分の思い通りに物事が進んで。でもよ、世の中そんなに甘かねぇんだよ。人生山あり谷ありだ。必ず障害があるんだよ。オメェにとっての障害、この俺だよ。今日だけじゃねぇぞ。これからもだ。」
石井智宏がIWGPヘビー級王者のケニー・オメガを撃破した後に言ったこのコメント。
この発言には何か、石井が生きてきた人生そのものが映し出されているに聞こえたのです。
石井智宏のレスラー人生には一体何があったのでしょうか。
【山あり谷あり①】WAR時代
石井のレスラー人生は、始まりから挫折続きでした。
1995年、天龍源一郎率いるWARに入門するも「身長が小さすぎる」という理由で3ヶ月でクビ。
諦めず1年後の1996年に再入団。しかし”雑用係”としての再入団でした。
同年11月に超電戦士バトレンジャーZを相手にようやくデビュー。
身長170センチと決してプロレスラーとして恵まれた体型ではないながらも
前座戦線で武骨なファイトを展開し、存在感をアピールしていきました。
天龍が新日本プロレス参戦時は、付き人として巡業に帯同していきます。
試合には出場しませんでしたが、大谷晋二郎や高岩竜人など、
当時ジュニアのトップ戦線で凌ぎを削っていた選手たちのスパーリング相手として貴重な経験を積んでいきます。
しかし1998 年、WARの選手全解雇を受けまだデビューして2年の石井はフリーとしての活動を余儀なくなれます。
いわゆるヤングライオンの状態で、プロレス界という荒野を歩んでいくことになります。
【山あり谷あり②】フリー時代
数々のインディーズ団体を転戦して3年、
石井は信頼出来るレスラー達と出会います。
そのレスラーとは、現在も”兄さん”と呼び絶大な信頼を寄せる外道、
そしてレスリングマスターと称されるディック東郷の2人です。
2001年、石井と外道、東郷はヒールユニット「F.E.C」を結成し
みちのくプロレスを主戦場にしていきます。
F.E.Cは勢力は拡大し、石井は主力メンバーとしてみちのくプロレスで猛威を振るっていくのでした。
【画像:F.E.C時代の東郷(左)と石井(右)】
【山あり谷あり③】WJプロレス~リキプロ時代
F.E.Cの活動で順風満帆に見えた石井でしたが、
さらなる高みを目指しレジェンドレスラーの下に居場所を求めます。
2002年9月、サイパンで合宿をしている長州力にところに単身乗り込み弟子入りを直訴したのでした。
当時、弟子であった中嶋勝彦と共に厳しい指導を耐え抜き、
長州が立ち上げたプロレス団体「WJプロレス」に晴れて入団を果たします。
【画像:左から長州力、中嶋勝彦、石井智宏】
2004年には高岩竜一とのタッグでNWAインターナショナルライトタッグを獲得するなど活躍をします。
だが、上り坂を駆け上がっていた石井にまたもや非情な現実が訪れます。
2004年8月、経営不振に陥っていたWJプロレスが崩壊してしまうのでした。
WARに続き2回目の団体崩壊の被害者になったのです。
行き場を失うところでしたが、
石井は、最後まで団体に残っていた選手の受け皿的役割を果たす団体「リキプロ」を設立した長州についていきます。
所属選手が少ないリキプロは単独興行が行えず、
当時大量離脱によって所属選手を欠いていた新日本プロレスに協力するカタチで参戦をします。
石井の新日本プロレスへの参戦はここからだったのです。
【山あり谷あり④】GBH~ブラックタイガー時代
しばらくは長州の後ろをくっついて歩く弟子と見られ軽視されていましたが、
その評価を変えたのが矢野通とのタッグ結成でした。
2006年6月からは矢野とともに、真壁刀義&越中詩郎と血を洗うような泥沼抗争を繰り広げていきます。
これにより”長州の弟子”というイメージから脱し、
”石井智宏”という1人のレスラーとしてファンから認知されていくのでした。
抗争を繰り返した後、
天山広吉が立ち上げたヒールユニット「GBH(グレート・バッシュ・ヒール:最も偉大で凶悪なヒール)」にパートナーの矢野、抗争を繰り広げていた真壁&越中と共に合流。
さらに存在感を発揮するためにヒールという道を歩む決心をします。
時のヒールG・B・Hの一員である石井も数々の悪行を働いていくのでした。
【画像:GBH時代の天山・真壁・石井】
ところが皮肉にも、リーダの天山や飛ぶ鳥を落とす勢いの真壁の存在によって
影を潜めてしまうのでした。
難渋を強いられる石井は、新たな場所を求め
2009年4月、中邑真輔と矢野が立ち上げた新ユニット「CHAOS」に異動します。
【画像:CHAOSの初期メンバー】
井上亘と抗争を繰り広げたり、
ブラックタイガーに扮し、タイガーマスクとマスクと髪の毛を賭けて闘う「マスカラ・コントラ・カベジェラ」を行うなど
存在感をアピールしていきます。
【画像:プラックタイガー時代の石井(左)】
石井の運命を変えた試合
新日本プロレスを主戦場にして5年、前座から中堅の位置を行ったり来たりしていた石井の運命を変えたのは
2011年11月の永田裕志とのシングルマッチでした。
結果は、永田のバックドロップホールドに敗れるものの、
山崎一夫ら解説陣からそのファイトが絶賛され、
以後、一目を置かれる存在になっていきます。
翌2012年5月には後藤洋央紀が持つIWGPインターコンチネンタルベルトに挑戦。
同年11月には新設されたNEVER無差別級王座の初代王者決定トーナメントで、
準決勝まで進出する大健闘を見せます。
準決勝で激突した田中将斗との試合は大会ベストバウトとの呼び声が上がるほどでした。
【動画:石井 VS 田中】
https://www.youtube.com/watch?v=XXJg0SJpid4
翌2013年2月には初代NEVER無差別級王者の田中将斗に挑戦。
王者奪取とはならなかったが、前回を凌ぐ大熱戦で藤田和之など新日本プロレス外のレスラーからも大絶賛されます。
同年8月、新日本プロレスに出場するようになって9年にしてようやくG1出場へのキップを手にします。
優勝候補の棚橋弘至を必殺技の石井ドリラーでマットに沈めるなど、大波乱をやってのけるのでした。
”NEVER”石井智宏
勢いをそのままに翌2014年2月には内藤哲也が持つNEVER無差別級王者に挑戦し勝利。
キャリア初となる新日本プロレスのシングルベルト奪取となりました。
その後、石井は2年に渡ってNEVERを主戦場にします。
高橋裕二郎や真壁、本間朋晃などのパワー系ファイターと熱戦を繰り返し、
「NEVER」=「武骨な熱い戦いをするベルト」というイメージに染め上げていくのでした。
2年もの間、NEVER戦線に君臨した石井によって
”第3のベルト”と言われているNEVERは価値が上がり、
時にはインターコンチやIWGPヘビーを超えるような戦いを見せるほどでした。
棚橋は、当時のことをこのように振り返っています。
「セミ前で石井選手がすごい試合をするから、それを超える戦いをメインでやらなければいけないというプレッシャーがあった。」
また、棚橋はこのように石井を称賛しています。
「石井のファイトスタイルはレスラーが真似したくなる」
思えば、現在トレンドになっている
「どこまで続くんだと思わせるような命を削るような攻防」や「相手を怒らせる行為」は
石井がNEVER王者の時に始めたものでした。
ともなれば、一種、現在のトレンドを生んだのが石井であり、
時代の最先端を行っているとも言えるでしょう。
導き出した”レスラー人生の教訓”
プロレス界のトレンドさえも作ってしまう石井はあるコメントを残しています。
それは、2018年4月ヘナーレとのシングル戦後に放ったこの言葉です。
「若造、いてぇだろ?苦しいだろ?悔しいだろ?これがプロレスだ。プロレス人生、ほとんどこれとの闘いだ。これにどう向き合うか?どう打ち勝つか?それが全てだ。
重要なのはこのシングル、会社のプッシュで組まれたカードか?それともあいつ自身が自分の手で掴み取ったのか?そこだよ。
それからもっと重要なこと。それは毎試合、こういう気持ちで挑めるか。毎試合、なんらかの爪痕、インパクトを残せるか。」
石井のレスラー人生を振り返ってみると、
お世辞にも順調にいったとは言えません。
人知れずもがき苦しんでいたことは想像に難しくはないでしょう。
苦境を乗り越えることで見出した石井の”レスラー人生の教訓”のように聞こえます。
そして、石井はこの教訓を見事自身の価値へと昇華していくのでした。
価値のあるレスラーへ
柴田勝頼がNEVER王者に君臨したのを最後に、石井は主戦場を次々に変えていきます。
ROH世界王者になり、矢野とのタッグでIWGPヘビータッグ王座を奪取し、
ブリティッシュヘビー級王座にも君臨を果たします。
まさに、世界から引く手あまたのレスラーになっていくのでした。
直近では、鈴木みのるの挑戦に破れブリティッシュヘビー級王座を明け渡していまい無冠ではあるものの、
次期シリーズで、IWGPヘビー級王者にして最強外国人のケニー・オメガとベルトを賭けて戦います。
公言通りケニーの障害となり、さらの価値あるレスラーになることを密かに睨んでいるに違いありません。
【次回予告】
次回は、「後藤洋央紀の魅力」を深掘りしていきたいと思います。
https://kadrhosh.com/goto_hirooki/
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