先月の6月16日、蝶野正洋はJR有楽町駅前に設置された特設リングで
AED(機能を失った心臓に電気ショックを与える自動体外式除細動器)を使った
救急救命の啓発活動を行っていました。
この日は、真夏を思わせる炎天下だったにも関わらず、
一番暑い時間帯である正午から、18時過ぎまで蝶野はリングに立ち続け、
救急救命の大切さについて伝え続けていたのです。
かつてヒールとして、我が物顔でリングを荒らしてきた蝶野正洋が、
なぜここまでして救急救命の啓発活動に一生懸命なのでしょうか。
それには、
”三沢光晴の死”
が関係しているのでした。
そこで今回は、蝶野正洋がなぜこのような活動をすることに至ったのか、
蝶野の過去の経歴にも触れながら話していきます。
数々の栄光を手に入れたレスラー時代
蝶野正洋は1963年生まれの現在53歳です。
1984年に新日本プロレスに入団し、
同期には、武藤敬司や橋本真也がいます。
この2人と共に蝶野は「闘魂三銃士」と呼ばれ、
90年代~00年代にかけて活躍をしていました。
蝶野といえば、黒の総帥として
「nWo JAPAN」「TEAM 2000」「ブラック・ニュー・ジャパン」
と、数々のヒール軍団のリーダーとしての活動もしています。
それだけでなく、
IWGPヘビー級王座1回、IWGPヘビー級タッグ王座7回、
G1CLIMAX 91,92,94,02,05年優勝等、
幾度となく栄冠を手に入れていれてきました。
蝶野と三沢の関係が新日本を助けた
また、蝶野は新日本プロレスの代表レスラーとして、
”プロレス冬の時代”
を支えたレスラーのうちの1人でもあります。
2002年、
新日本プロレスは所属のレスラーとフロントスタッフの大量離脱で瀕死状態となり、
当時、現場最高責任者だった蝶野は
5.2東京ドームを成功させるため、
NOAHの社長である三沢光晴に頭を下げ、参戦を要請したのです。
すると、三沢はこれを二つ返事で承諾。
こうして「蝶野正洋 vs 三沢光晴」という夢のカードが実現し、
東京ドーム大会がなんとか成功を収めたという経緯があります。
YouTubeに
この試合の動画が残っていたので載せておきます。
https://www.youtube.com/watch?v=0QMhoN3mldY
この後も、
当時絶頂期を迎えていた
小橋建太の新日本参戦(蝶野正洋 vs 小橋建太)等も実現し、
新日本プロレスは、
一番苦しい00年代中頃をNOAHに支えてもらっていました。
「蝶野と三沢の関係が新日本を助けた」
とも言えるのです。
そんな中、2009年6月13日、NOAHの広島大会で
三沢が試合中の亡くなるという悲劇が起こりました。
リングにはAEDが持ち込まれ、必死の応急処置後、病院に搬送されましたが、
三沢は帰らぬ人となったのです。46歳という若さでした。
三沢光晴への恩
8年後の6月、
炎天下の中、蝶野は特設リングに立ち続けていました。
「三沢社長が亡くなった翌年に、
プロレス業界でライセンス制度の話が起こったが、座礁した。
そんな経緯もあって自分に何が出来るか考えた。
より多くの人に救急救命の意識を持って欲しいという思いで活動している。」
以上のように、
蝶野は活動への思いを語っています。
この言葉に僕は、瀕死状態だった新日本プロレスに手を差し伸べてくれた
「三沢への恩」
を感じずにはいられませんでした。
40代という志半ばにして逝った三沢光晴の思いを背負い、
蝶野は50代の人生を歩んでいるのでしょう。
リング外からプロレスと関わっていく
そんな蝶野は、現在、自身がプロデュースするブランド
「アリストトリスト」を経営する傍ら、
TOKYO MXで放送中の「パラいろダンディ」の司会をしたり、
7月からスタートしているフジテレビ系ドラマ
「警視庁いきもの係」に俳優としてゲスト出演したり、
タレント業もこなしています。
また、今後のプロレス界との関わりについて蝶野は
「リングに上がるというより解説をしたりして関わっていきたい」
と意欲を示しています。
年間100試合こなすような体力がないという理由から、
“プロレス休業宣言”という事実上引退をした蝶野は、
今後リング外からプロレスと関わっていくようです。
まとめ
“黒の総帥”とまで呼ばれたヒールレスラー蝶野正洋が
今、救急救命の啓発活動をしているというのは驚きを感じます。
しかし、蝶野のレスラー人生を振り返った時、
切っても切れないのが、
“三沢光晴の死”であり
“三沢光晴への恩”でもあるのでしょう。
そんな三沢の思いを背負って啓発活動をする蝶野正洋を、
僕は陰ながら応援していきたいと思います。
【次回予告】
次回はDOUKIの正体に迫ります。
https://kadrhosh.com/douki/