今年のベスト・オブ・ザ・スーパージュニア(以下、BOSJ)は、これまでの16名参戦の大会からG1クライマックスと同人数の20名に拡大、
さらに初の全戦生LIVE配信が決定しています。
新日本プロレスが世界に打って出るために、BOSJをブランド化させようとする気概を感じます。
新日ジュニアは遠くない将来、黄金期を迎えるのではないでしょうか。
そんな新日ジュニアがかつて黄金期を迎えた時代があります。
それは1990年代です。
その時代に、突出したセンスと身体能力を発揮し天才と称されたジュニアの”超新星”がいたことを覚えているでしょうか。
2001年に新日本プロレスを去りZERO-ONE(現ZERO1)に移籍をした男・大谷晋二郎です。
そんな大谷は現在46歳。
ZERO1はメディアなどの露出が少ないため、現在彼が何をしているか知らない方は多いのではないでしょうか。
今回は大谷晋二郎の軌跡と現在に迫っていきたいと思います。
アントニオ猪木との出会い
大谷は山口県山口市出身。
プロレスと出会ったのは小学2年生の時でした。
当時、新日本プロレスは金曜夜8時のゴールデンで放送されていた時代。
大谷はテレビ越しに観たアントニオ猪木の戦う姿を見て、憧れを持つようになります。
小学6年生時、新日本プロレスが山口にやってきました。
是が非でも猪木と話をしたい大谷は、レスラーが宿泊するホテルを探し当てます。
とはいえ、ゴールデン放送されていた新日本プロレスは人気絶頂。
ホテルは厳戒な警備体制が敷かれているため、通常であれば猪木と会話することは許されません。
子供の大谷は、そんな事情も知らずホテルに乗り込みます。
しかし、あえなく入り口で警備員に押さえつけられます。
偶然そこへ猪木が現れニヤっと笑い、こう言ったそうです。
「離してやってくれ」
そして、大谷をジッと見てこう言い放ったそうです。
「おい!なんの用だ!?」
あまりの緊張に何も答えられない様子だった大谷に猪木は
「サインするか?」
そう言うと、大谷の首に巻かれた赤い闘魂タオルにサインをしてくれたのです。
あまりに嬉しい大谷は猪木にこのように伝えました。
「猪木さん!僕はプロレスラーになります!新日本プロレスに入ります!よろしくお願いします!」
すると、猪木はニヤっと笑い
「待ってるぞ!」
と言い残したそうです。
このやりとりをボジティブに「スカウトされた」と捉えた大谷は、それ以降プロレスラーになることを目指すのでした。
喉の奇病をポジティブに捉える少年時代
しかし、その直後、大谷は運動をすると呼吸困難になる喉の奇病にかかります。
医者には運動禁止を言い渡されたのです。
プロレスラーを目指す大谷にとって運動禁止は痛手のハズでしたが、
「運動出来ない体なのに、それを克服してプロレスラーになったら自分にとって1つのエピソードになる。」
とポジティブに捉えました。
何としてでも奇病を克服したい大谷は、中学2年生時に半年間の休学をし東京の病院で集中治療を受けます。
幸いにもそこで奇病を克服し、レスリング部がある山口県鴻城高校に進学。
長い間、運動をしていなかった大谷の体力は他の部員よりはるかに劣っていました。
しかし、人一倍練習をし、なんと国体とインターハイでベスト16の実績を残すまでに上り詰めたのです。
高校卒業後は、反対する両親を押し切り上京。
アニマル浜口ジムに入門します。
大谷の類まれない身体能力の高さを見たアニマル浜口は、大谷を「プロレス界の宝」と称したそうです。
秀才を発揮する新日本プロレス若手時代
1992年2月、大谷は19歳で新日本プロレスに入団。
同年6月に山本広吉(現・天山広吉)を相手にデビューします。
同年デビューには中西学、永田裕志、高岩竜一、石沢常光(現ケンドー・カシン)、
1年先輩には山本広吉、小島聡、金本浩二、西村修など、
今思えば錚々たるメンバーが同期にいたのです。
また、指導者には長州力・佐々木健介・馳浩などの鬼教官がいたため、
リング内外ともに厳しい環境下で若手時代を過ごします。
リング上では大先輩にしてジュニアの雄、獣神サンダー・ライガーにケンカ腰で挑むなど度胸の据わったファイトをみせたり
伸びのあるドロップキックやキレのあるジャーマンスープレックスで観客を魅了したりなど、
同期の中で頭一つ抜けた活躍をしていきます。
同日入団の高岩は当時の大谷をこのように語っています。
「お互いにデビューしてからは天と地の差でした。私はしょっぱ過ぎて試合が組まれない事が多かった。かたや大谷は1年目から両国国技館で大谷晋二郎 試練の5番勝負とか、スーパーJrにエントリーされたりとか、とにかく最前線を行っていた。今もそうだが、あの当時の大谷は超がつく天才だった。
引用元:https://www.z-1.co.jp/topics/detail_490.html
若い頃から、大谷は秀才を発揮していたのです。
新日ジュニアを代表する選手に
90年代は他団体との対抗戦も盛んな時代でした。
実力を買われていた大谷は新日ジュニアの代表選手として、対抗戦に望むことが多かったのです。
1995年の10.9東京ドームで開催されたUWFインター対抗戦では、山本健一を相手に勝利
1997年のイッテンヨンで行われた新日本プロレスと大日本プロレスの対抗戦では、田尻義博を迎え撃ち凱歌を上げます。
試合後、田尻は大谷にことを「大谷選手は空気のような選手でした」と称していました。
それほどに大谷のセンスは光っていたのです。
また、1996年8月に行われた「Jクラウン」の準決勝、対ウルティモ・ドラゴン戦は、新日本プロレスの歴史の中でもナンバーワンという呼び声が高い勝負をやってのけたのです。
そして買われた実力が実を結ぶ時がやってきます。
1997年、エル・サムライが持つIWGPジュニアヘビー級王座に挑戦し勝利を収めます。
デビューからわずか5年でジュニアの至宝に辿り着いたのです。
さらに、ジュニアタッグ王座には2回(いずれもタッグパートナーは高岩)栄冠、
BOSJは2回準優勝(1995年・2000年)を果たします。
名実ともに大谷は新日ジュニアを代表する選手になっていくのでした。
海外遠征を経てZERO−ONEに入団
2000年、カナダのカルガリーに海外遠征に行き肉体改造に成功します。
翌2001年1月、ヘビー級として日本に帰国。
凱旋試合では、WCWから同時帰国した武藤敬司と組み、獣神サンダー・ライガー&中西学組と対決。
新必殺技に携えたコブラホールドでライガーを失神させて勝利を収めるという大きなインパクトを残します。
同月、大谷は新日本プロレスを退団し、橋本真也が立ち上げた新団体「ZERO-ONE」に入団します。
大谷は後のインタビューでZERO-ONEに移籍した理由についてこのように語っています。
「新日本で出来なかったことを新団体で実現するため。」
伝統を重んじる新日本プロレスに対し、
「破壊なくして創造なし、悪しき古きが滅せねば誕生もなし、時代を開く勇者たれ」
を理念に掲げたZERO-ONEは、当時にしては画期的な動きを見せていきます。
その一つが団体の枠に囚われない交流戦です。
これまでも、対抗戦というかたちで団体間の交流が行われるケースはあったが、
あくまでも「団体VS団体」という対抗図式でした。
団体の枠を超えた交流とは言えませんでした。
しかし、ZERO-ONEが行った交流戦とは、真の意味で団体の枠を超えた交流戦だったのです。
それが実現されたのが同年3月、両国国技館で開催されたZERO-ONE伝説の旗揚げ戦です。
そこで行われた交流戦は一線を画していました。
メインイベントは橋本真也(ZERO-ONE)&永田裕志(新日本プロレス)VS三沢光晴(NOAH)&秋山準(NOAH)
3団体のトップ選手が団体の枠に囚われずに組まれた、異様にしてプロレス界最大のトピックになったこのタッグマッチに、両国国技館は満員に膨れ上がったのです。
この試合では、それぞれのセコンドについていたZERO-ONE勢とNOAH勢が乱闘になったり、
観戦に訪れた小川直也(UFO)や藤田和之(猪木事務所)もなだれ込んだりと、
カオスな状態に発展。
【動画:橋本真也&永田裕志 VS 三沢光晴&秋山準】
これを契機に、新日本プロレスとZERO-ONE、NOAHは団体間の垣根が急速に低くなり、
プロレス界は交流が盛んになったのです。
他方、大谷は全日本プロレスと新日本プロレスを行き来していた武藤が結成したユニット「BATT」の加入し、
長い間、高い壁で封鎖されていた全日本プロレスと新日本プロレスの垣根を取っ払うことにも成功。
これにて、00年代は新日本プロレス・全日本プロレス・NOAH・ZERO-ONEの4団体が混迷を極める時代に突入していったのです。
まさにプロレス界の破壊に成功させたのが、橋本・大谷が率いる”プロレス界の異端団体”ZERO-ONEだったのです。
また、大谷は団体問わず熱い選手を集めて”1番熱いやつ”を決める大会も開催。
それが現在でも続く「火祭り」です。
さらに、田中将斗とのタッグ「炎武連夢(エンブレム)」を結成し、2002年にはプロレス大賞の最優秀タッグ賞を受賞するほどの活躍を見せます。
【画像:炎武連夢】
ZERO1-MAXからハッスル参戦へ
ZERO-ONEは、破壊を繰り返す姿勢によって多くのファンを獲得していましたが、
設立してわずか3年後の2004年に息絶えます。
経営方針等の諸問題が積み重なり団体は崩壊。
設立者の橋本もZERO-ONEから身を引いていきました。
「橋本真也を慕ってきた選手がいっぱいいたから、みんなが路頭に迷っちゃう」
そう思った大谷は、2005年にZERO-ONEの後継団体「ZERO1-MAX」を立ち上げ、
ZERO-ONEメンバーと再出発をします。
大谷率いるZERO1-MAXは、あらゆることに挑戦していきます。
格闘技イベントのPRIDEを主催していたドリームステージエンターテイメントと手を組み、
「ハッスル」というエンターテイメント色の強いプロレスイベントも手掛けていきます。
もちろん、大谷もハッスルに参戦。
「あちち~」と叫びながら技をかけるなど、これまでの熱いプロレスとは一変コミカル路線に挑戦をしていきます。
また、2005年には顔が江頭2:50に似ているからという理由で、タッグで組んで戦ったりもしています。
【動画:江頭2:50&大谷晋二郎&金村キンタロー & 天龍源一郎&川田利明】
https://www.youtube.com/watch?v=ZuREHj98boU
2007年からは「ファイヤーモンスターACHICHI」というリングネームでヒールレスラーにもチャレンジしています。
2009年には、ZERO1-MAXから「ZERO1」に改名し、心機一転を図ります。
様々なことに挑戦する一方で、大谷晋二郎としての実力も衰えることを知りません。
2006年1月、新日本プロレスのイッテンヨンでは、かつてのライバル・金本浩二に圧勝。
同月にはAWA世界ヘビー級王座を奪取。
2008年には、新日本プロレス時代から夢であったG1クライマックスに出場。
当時、新日本プロレス四天王の一人に挙げられていた真壁刀義の牙城を崩してのけたのです。
それだけでなく、毎試合熱い闘いを繰り広げたことが称えられ、週刊プロレス賞とファイティングTVサムライ賞も受賞しています。
ZERO1の至宝、世界ヘビー級王座には2回輝いています。
2015年には減量し、15年ぶりにジュニアヘビー級に復帰。
ZERO1ジュニアの至宝、インターナショナルジュニアヘビー級王座とNWAインターナショナルライトタッグ王座(タッグ―パートナーは高岩竜一)を奪取しています。
2018年には大和ヒロシと”世界一暑苦しいタッグ”を結成するなどして、
現在もZERO01の代表兼中心選手として活動を続けています。
ZERO1の厳しい現状
大谷個人を見ていくと様々なことに挑戦するなど、充実しているように見えますが
ことZERO1に関して言えば、現状は非常に厳しいです。
大谷自身もZERO1の現状をこのように語っています。
後楽園が満員にならないことがクローズアップされますが、こう言うと情けないんですけど、じゃあ満員だったときはあるのかと言うと、ないんです。橋本(真也)さんの時代にはありましたけど、それ以降になると、ない。頑張ってる選手たちに、満員の会場で試合をさせてあげるのが目標です。
引用元:https://nikkan-spa.jp/1387637
かつて、約1万人キャパの両国国技館を満員にしていたZERO1は、
1,700人ほどのキャパを擁する後楽園ホールする満足に集客出来ない状態に陥っているのです。
まして、290人キャパの新木場1stringすら満員に出来ていないケースが往々にしてあります。
当然、後楽園を埋めるという目標をまず達成しないといけない。そうするためには、こういう言葉で逃げちゃいけないですけど、ただひたすら、大谷晋二郎をするしかないんですよね。クサいことを言って、でもずっと結果が出ていない大谷晋二郎に、ついてきてる奴らがいるんですよ。そいつらに、絶対いい思いをさせてやりたい。金銭面でもそうだし、いつも満員のお客さんの前で試合が出来るようにしてやりたい。僕はひたすら、大谷晋二郎の答えを出さなきゃいけないんですよね。
引用元:https://nikkan-spa.jp/1387637/2
「ひたすら大谷晋二郎の答えを出さなければならない」
僕にはこの言葉が、抽象的で何を言ってるか理解出来ず
現状から逃げるための言い草にしか聞こえませんでした。
実際のところ、長い間ZERO1は観客動員数に苦しんでいるものの、
集客するためにこれといった対策を講じていません。
何か変えなければならないのに何も変えていない姿勢に、どこか現状に甘んじているように思えたのです。
天才と言われ名声を手に入れた大谷はどこにいったんだーー。
常に上を目指すチャレンジ精神に溢れる大谷はいなくなったのかーー。
変わったなぁーー。
落ちぶれたーー。
そんなモヤモヤを感じました。
なぜ大谷は変わってしまったのだろうか。
それを突き止めるために僕は色々調べてみました。
すると、ある講演会の動画に辿り着きました
この講演会を聴いて、大谷が変わった理由が分かったのです。
いじめ撲滅講演会
その講演会とは、2010年に放送された「アメトーーク 新春ゴールデンSP」の「俺たちのゴールデンプロレス」で特集された「いじめ撲滅講演会」です。
その中でこんな内容の話をしていました。
①いじめ撲滅運動をスタートさせたのは2006年頃のこと。当時、頻繁に報道されていたいじめ自殺報道に心を痛め「プロレスラーならではのメッセージを伝えることは出来ないのか」と思ったのがきっかけ。
②2011年、東日本大震災で被災した人を元気づけるためにたくさんの物資を持って行った。しかし、厳しい現実を突きつけら物資を渡す以外何も出来なかった。そんな自分に強い無力感を感じた。
③ある夫婦に「末期ガンの息子が大谷さんに会いたがっている」と言われ、元気を与えるためにプレゼントを持って会いに行った。しかし、その約1ヶ月後、息子は亡くなった。もしかしたら、息子さんは「大谷さんに会えばガンが治るんじゃないか」と希望を持っていたのかもしれない。それなのに自分はプレゼントを渡すだけで結局何も出来なかった。「大谷晋二郎は何も出来ていないじゃないか」と非力さを感じた。
④息子をガンで亡くし消沈している夫婦をZERO1の大会に招待した際、「大谷さんのプロレスを見て、大谷さんの言いたいこと、伝えたいこと、わかりました、私達もがんばります」と涙を流しながら感謝された。
①から④までの経験を通して、大谷はこのように思ったそうです。
プロレスには言葉では伝えられない何かを伝えられる
プロレスの可能性に改めて気づいた大谷は、プロレスに対する姿勢か変わったのだそうです。
「20代の頃は、いい意味でも悪い意味でも自分のことしか考えていなかった。先輩・後輩関係なく全員引きずり下ろして、自分がチャンピオンになればいい。」
から
「誰かのために戦いたい。誰かのためにプロレスがしたい。僕の戦っている姿を見せて、見ている人が『自分も頑張ろう』て思ってもらうようになりたい」
「自分のためのプロレス」から「誰かのためのプロレス」への変化。
これがプロレスに対する姿勢が変化した真の理由だったのです。
甘んじているのではなく、
「誰かのためのプロレス」をするにあたって上を目指すことは重要ではなくなったのです。
『「記録」ではなく「記憶」に残る〇〇』なんて言葉がありますが、
この言葉を借りて言うなら、大谷は
『「記録」より「記憶」を選んだレスラー』
と言えるのではないでしょうか。
大谷晋二郎と書いて、プロレスと読む
現在、大谷は様々なボランティアやチャリティー活動を行っています。
■頚椎完全損傷で首から下が動かない高山善廣のチャリティ支援ライブへの参加
■「新潟県いじめ撲滅大使」に就任
■西日本豪雨では広島に長靴を寄付
■熊本地震の際は瓦礫撤去の手伝い
なんでこんなことばかりしているんだろう。
そこから集客に繋げるための偽善行為なんじゃないかな、とさえ僕は思っていました。
しかし、それは誤解でした。
「誰かのためにプロレスをする」という思いが、このような活動をする原動力になっているということを知ったのです。
ここで、僕はこんな着地点を見つけました。
「プロレスを誤解している人には、大谷晋二郎を見せればいい」
誰かのためにプロレスをしている大谷ならプロレスの誤解を解けるのではないか、と。
『プロレスの根本は相手の攻撃を受け止める。逃げない姿勢。何回倒されても何度でも立ち上がる。それがプロレス。そんなプロレスから「逃げないぞ!」「何度でも立ち上がるぞ!」そういった気持ちをプロレスから学んでもらいたい』
大谷はこの熱いメッセージでいじめ撲滅講演会を締めくくっていました。
この言葉には何かグッとくるものがありました。
大谷は「プロレスの神様がこう言った」などといい、
ことあるごとに”プロレスの教科書”を披露し数々の名言を残しています。
【動画:プロレスの教科書を披露する大谷(0:30から)】
でも本当は、大谷こそがプロレスの神様なのではないか、とさえ思えてきました。
大谷晋二郎はプロレスをする運命のもとに生まれてきたのかもしれない。
いや、きっとそうに違いない。
大谷晋二郎と書いて、プロレスと読む。
大谷晋二郎と書いて、プロレス界の宝と呼ぶーー。
※大谷のツイッター、ブログはこちらからご覧になれます。
ツイッター
ブログ(注釈・現在更新されていません)
【次回予告】
次回は、金本浩二の現在に迫っていきます。
https://kadrhosh.com/koji_kanemoto/