棚橋弘至が2011年に打ち立てたIWGPヘビー級王座の最多連続防衛記録「11回」が、オカダ・カズチカによって「12回」に塗り替えられたのは記憶に新しいです。
対して、IWGPジュニアヘビー級王座の最多連続防衛回数は2004年に田中稔(当時・ヒート)が記録した「11回」です。
14年経った今も破られていません。
未だに誰も到達していないこの大記録を持つ田中稔は現在どこで何をしているのでしょうか。
彼が歩んできたレスラー人生を振り返りながら彼の現在に迫っていきたいと思います。
プロフェッショナル藤原組から格闘探偵団バトラーツへ
生粋のUWF好きの田中は
1991年7月にプロフェッショナル藤原組に入門を果たします。
しかし、先輩である鈴木みのるの厳しい”しごき”に耐えられず即退団してしまいます。
意外にも、田中のレスラー人生は出鼻をくじかれるところから始まったのです。
1年半後の1993年3月、諦めきれなった田中はプロフェッショナル藤原組に再入門。
翌1994年1月マーク・アシュフォードを相手にようやくデビューします。
翌1995年、新団体の「格闘探偵団バトラーツ」へ移籍。
UWFやPRIDEが目指した総合格闘技にプロレスの醍醐味をミックスした、
バトラーツの独自のスタイルは田中を着実に強くさせていくのでした。
新日ジュニアで潰される日々
とはいえ、バトラーツはインディーズ団体。
どんなに練習をしても、田中の耳に入ってくるのは「メジャーに絶対通用しない」という無情な声でした。
しかし、「藤原組で育った自分は他と違う」という事実を証明するために、
田中は新日本プロレスのジュニア勢に宣戦布告をします。
1999年4月、新日本プロレスの東京ドーム大会に参戦を果たします。
対戦相手は新日ジュニアの雄・高岩竜一。
勝ち目が薄い中、挑んだシングルマッチは予想に違わずボコボコにされ返り討ちに。
新日本プロレスでの初戦は苦い思い出になってしまいました。
その後も継続参戦をするが、獣神サンダー・ライガーや金本浩二、大谷晋二郎、ケンドー・カシン、エル・サムライなど
ジュニアの重鎮たちから容赦なく潰されます。
しかし、田中は「潰されてたまるか」の一心で耐え抜きました。
その経験が、今後訪れる田中の「インディーからの成り上がりストーリー」の礎になっていきます。
新日本プロレスでの成り上がりストーリー
格上に当たる新日ジュニア勢に揉まれる中で、田中が繰り出す技術は格段と上がり、
藤原組で鍛え上げた関節技を必殺技に昇華させた「ミノル・スペシャル」を習得します。
同年、必殺技を携えて挑んだ「ベスト・オブ・ザ・スーパージュニア」では、
なんとエル・サムライや大谷晋二郎との勝負に凱歌を揚げる快挙をやってのけたのです。
勢いをそのままに翌2000年6月、
金本浩二とジュニアスターズを結成しIWGPジュニアタッグに初栄冠。
当時では珍しい”イケメンタッグ”を売りにジュニアを一世風靡します。
すでに主戦場を新日本プロレスに移していた田中は、
同年10月にバトラーツを正式退団。
以後、フリーとして新日本プロレスに参戦をします。
同月、時の王者・高岩竜一に撃破しIWGPジュニアヘビー級王座に初戴冠。
翌2001年1月、新日本プロレスに正式入団します。
同年4月に行われた村浜武洋を相手のした防衛戦は、
瞬きに許されない16分間として絶賛されました。
【動画:田中稔 VS 村浜武洋】
2002年5月にはジュニアのシングル・タッグ2冠王者に君臨を果たします。
飛ぶ鳥を落とす勢いで、田中は「藤原組で育った自分は他と違う」ことを証明し
インディーからメジャーの仲間入りを見事にやってのけたのでした。
また、同年にはアイドルレスラーとして活躍していた府川唯未と結婚します。
ヒートに転身した後ヒールへ
ところが、順風満帆に見えた田中に新しい局面が訪れます。
橋本真也や武藤敬司、佐々木健介などの主力選手の退団が相次ぎ、
折からの総合格闘技ブームやプロレスリングNOAHの大盛況に押され新日本プロレスは経営面でひっ迫していました。
そこで当時の社長、藤波辰爾がタイガーマスクに変わる新たな覆面レスラーを開拓しようと
ゲームボーイアドバンス用ソフト「闘魂ヒート」に出てくる覆面レスラー「ヒート」を2002年10月にデビューさせます。
そう、その中身の人物に抜擢されたのが田中稔です。
しかし、慣れないマスクに精彩を欠き不甲斐ないファイトに一変してしまい、
タイガーマスクのようなスター選手になることが出来ませんでした。
終いには、邪道・外道を中心にするヒールユニット「C.T.U」から勧誘を受ける始末。
はじめは難色を示していたが、将来を有望された覆面レスラーは最終的にはC.T.Uに加入し、
悪の染まっていくのでした。
そして、ヒートはバトル仕様に変わり
2003年12月、邪道が保持するIWGPジュニアに挑戦をしヒートとして初栄冠。
2005年1月にタイガーマスクに敗戦を喫するまでの1年1ヶ月間に及ぶ長期政権を築き、
連続防衛記録「11回」に偉業を成し遂げたのです。
2005年5月、マスクを脱ぎヘビー級への挑戦を視野も入れ、リングネームを「稔」に改名。
2006年のベスト・オブ・ザ・スーパージュニアではタイガーマスクを撃破し、7回目の出場で悲願の初優勝を果たします。
【動画:2006年ベスト・オブ・ザ・スーパージュニア優勝】
2007年8月、C.T.Uの解散とともに、
稔は中邑真輔が立ち上げた新ユニット「RISE」に加入。
【画像:RISEの立ち上げメンバー(左からミラノコレクションA.T.・後藤洋央紀稔・中邑真輔・稔)】
2008年1月にはプリンス・デビッドをパートナーに、
当時IWGPジュニアタッグ王者のTAKAみちのく&ディック東郷組を破り王者に輝くなど、
ユニットを変えてもその実力は衰え知らずでした。
新日本プロレスを退団
ところが、活躍とは裏腹に稔の心根は新日本プロレスから離れていくのでした。
事の発端は2008年5月のことでした。
稔がやりたいプロレスは観客が熱狂してストンピングをするような試合。
しかし、訴えても試合カードには反映されず、
反抗心から客をいじり、楽しませる方向へ走っていました。
「お客さんが楽しんでくれるならそれでもいい」
そんな諦めにも似た気持ちでいたある日、
試合を見ていた山本小鉄に「オマエ、もっといい試合しろ!」と怒鳴られ殴られたのです。
その日を境に、小鉄氏との関係は険悪になり、稔の気持ちは新日本プロレスから離れていったのでした。
やがて、稔が抱き始めたのは、このまま新日本プロレスにいては出来ない次のような挑戦でした。
・団体のしがらみに縛られず自分のやりたいプロレスをやっていきたい
・やりたい相手と希望するリングで戦いたい
・メジャー3団体(新日本プロレス・全日本プロレス・プロレスリングNOAH)のジュニアタイトルを制覇して歴史に名前を刻みたい
IWGPヘビー級王座4回(ヒート時代を含む)、IWGPジュニアタッグ王座5回、ベスト・オブ・ザ・スーパージュニア優勝1回・準優勝2回という輝かしい栄光を残しながら
ついに、2009年1月に新日本プロレス退団をします。
新日本プロレスを退団した本当の理由
ただ、後のインタビューで明らかになったのは
稔が新日本プロレスを退団しようと思いはじめたのは、
子鉄氏に殴られるより2年前の2006年からだったのです。
「やる気をそがれることが多々重なった。誰になにを言われたのかは迷惑がかかるので言えない」
と、詳細までは語っていないが僕が予想するには次のようなことだと思います。
先述の通り2008年の時点で、カード編成に対して不満を募らせていたということは
2006年からその不満は始まっていたのではないかと推測出来ます。
では、不満の一因になったカード編成について訴えた相手とは誰なのでしょうか。
おそらく、当時ジュニアのカード編成を行っていたブッカー、邪道と外道ではないかと考えられます。
稔は当時の社長、菅林直樹からも目をかけられていた存在です。
その稔が退団するきっかけを作ったのがブッカーであると知ってしまえば、
会社も邪道と外道に対して何らかの処分を下す可能性があると稔は考えたのでしょう。
だから詳しく語るのを控えたのではないかと考えられます。
インディーからメジャーの成り上がるほどの挑戦心に溢れていて、
カード編成に口出しをする稔を邪道・外道は煙たがっていたのかもしれません。
CTUが解散した理由は、表上「ジュニアを制圧しきったから」と言っていたが、
今思えば、裏で稔と邪道・外道の間に入った亀裂が収集不可能になったからではないかと考えることも出来ます。
フリーで全日・ZERO1・DDT参戦
数々の功績を残し、新日本プロレスを退団した稔を他団体は放っておくはずもなく
退団翌日には団体やプロモーションから11のオファーが殺到。
退団翌月の2009年2月からフリーで全日本プロレスとZERO1、DDTに参戦していきます。
今までの経験を活かすように、
ZERO1では藤田ミノルとタッグを組み正統派レスラーとして、
全日本プロレスでは、TARU率いるヒールユニット「VOODOO-MURDERS」に加入してヒールレスラーとして、
【画像:VOODOO-MURDERS】
DDTプロレスではミノール・ポルナレフというギミックレスラーとして参戦します。
【画像:ミノール・ポルナレフ】
稔のレスラーとしての幅の広さを発揮していきます。
全日本プロレス所属になりベルト奪取
約半年間、3団体の中心に活動した後は、
同年6月に全日本プロレスの所属選手になります。
同時にリングネームを「田中稔」に戻しました。
2011年には全日本プロレスの至宝、世界ジュニアヘビー級王座に栄冠。
翌2012年には金本浩二とジュニアスターズを再結成し、
アジアタッグ王者も奪取します。
2013年6月全日本プロレスは退団をする武藤敬司派と残留組に分裂。
田中は武藤に追随するかたちで全日本プロレスを退団。
WRESTLE-1所属になってもベルト奪取
同年7月、武藤が立ち上げた新団体「WRESTLE-1」の活動の場を移し、のちに所属選手になります。
ここでも、田中はWRESTLE-1が管理するジュニアのフラッグシップタイトル、
クルーザーディビジョンチャンピオンシップの初代王者になります。
その時に打ち立てた最多連続防衛記録5回は未だに破られていません。
2016年6月、3年間いた「WRESTLE-1」を退団し、再びフリーになります。
現在はNOAHを主戦場に
その後は、再びフリーとして、古巣の全日本プロレスやZERO1を主戦場にしていきます。
翌2017年3月には、金本浩二をパートナーに
ZERO1の至宝、NWAインターナショナルライトタッグ王座を奪取。
2017年9月にはプロレスリングNOAHに姿を現し
「GHCジュニアのベルト頂きに参りました」
とGHCジュニア取りを高らかに宣言。
新日本プロレス退団した時に目標にしていた「メジャー3団体のジュニア全制覇」に着手を開始します。
翌2018年4月、小川良成と組みGHCジュニアヘビー級タッグ王座を奪取。
2018年10月現在、パートナーをHi69に変えGHCジュニアヘビー級タッグ王者として
NOAHの第一線で活躍をしています。
「メジャー3団体のジュニア全制覇」に向け、
残るはGHCジュニアヘビー級王座のみです。
新日本プロレスを退団して約10年、目標達成に王手が掛かっています。
現在、田中は45歳。
以下の動画を観ても分かる通り、
新日本プロレス時代と変わらぬコンディションと技の切れ味で
今もなお掲げた目標に挑戦し続けているのです。
【動画:グローバルジュニアリーグ2018 田中稔 VS YO-HEY】
終わりに
さて、田中はプロレスラーとしてだけでなく、
逗子市のフィットネスジム「フィットアネックス ZSC」でパーソナルトレーナーとしての活動もしています。
また、まことしやかに言われている嫁・府川唯未との離婚についてですが
どうやらデマ情報のようです。
2018年9月の府川唯未のアメブロを見ると田中との仲睦まじい様子をうかがい知ることが出来ます。
昨日はカルッツ川崎。プロレスリング・NOAH観戦✨
旦那さんがタイトルマッチという事で皆でかけつけました(^ー^)おめでとうございます!2度目の防衛成功✨大喜びの子供達✨
引用元:https://ameblo.jp/yumi-fukawa/entry-12398913168.html
フリーランスで活動している田中は自身のSNSを有効活用して
情報を発信しています。
田中稔の近況をチェックしたい方は以下のリンクから見てみてください。
【次回予告】
次回は「蝶野正洋の現在」に迫ります。