「【前編】女子プロレス団体の系譜と歴史〜女子プロレスの起源から全日本女子プロレス誕生まで〜」では、女子プロレスの起源から「全日本女子プロレス」誕生までの歴史を見てきました。
【中編】では、「全日本女子プロレス」誕生以降の話をしていきます。
「日本女子プロレス協会」の系譜と歴史
それでは、「全日本女子プロレス」に移籍せず、中村守恵率いる「日本女子プロレス協会」に残った者たちの系譜と歴史から見ていきましょう。
「日本女子プロレス協会」は、東京12チャンネル(現:テレビ東京)でのレギュラー放送が行われていたが、1970年に終了。
それを皮切りに選手の脱退が相次ぎます。
1972年、「日本女子プロレス協会」が崩壊。
1974年、東京12チャンネルが、男子プロレスの「国際プロレス」をレギュラー放送する条件として、団体内に女子部を設けることを提言。
それを受け、「国際プロレス」は「国際プロレス女子部」を設立。
その女子部は、「日本女子プロレス協会」の所属選手の受け皿になります。
1976年、「国際プロレス女子部」が解散。
同年、「国際プロレス女子部」に所属していた千草京子と、元「日本女子プロレス協会」の阿蘇しのぶを中心に新団体「ニューワールド女子プロレス」を設立。
「国際プロレス女子部」は「ニューワールド女子プロレス」に引き継がれます。
同年、たった1シリーズで「ニューワールド女子プロレス」は解散。
これにより、”中村派”の「日本女子プロレス協会」の系譜に終止符が打たれました。
「全日本女子プロレス」誕生以降の系譜と歴史
次いで、松永率いる「全日本女子プロレス」誕生以降の系譜と歴史を見ていきましょう。
「全日本女子プロレス」の設立以降、女子プロレスの系譜は以下6つに大別されます。
・全女系
・ジャパン女子系
・全女・ジャパン女子ミックス
・さくらえみ系
・DDT系
・スペル・デルフィン系
ここからは系譜ごとに、歴史を振り返っていきましょう。
全女系
「全日本女子プロレス」通称”全女”は、設立後に細胞分裂のように分かれていきます。
全女系の系譜を見ていくと、「長与千種イズム」「井上京子イズム」「ロッシー小川イズム」の3つと、その他に大別されているのが分かります。
それぞれの歴史を振り返っていきましょう。
長与千種イズム
長与千種は1980年の「全日本女子プロレス」でデビュー。
当時の「全日本女子プロレス」は、ショー的要素が強く、ファンはプロレスより歌を目当てにしている傾向にありました。
そのため、空手にルーツがある長与のスタイルは、周囲や観客に受け入れられませんでした。
それに長与は強く失望します。
そんな中、ライオネス飛鳥と意気投合しタッグチーム「クラッシュギャルズ」を結成。
「女子プロレスをプロレスとして認めてもらいたい」という強い思いで、男子プロレスのファイトスタイルを取り入れ、「全日本女子プロレス」に新しい風を吹き込みます。
【クラッシュギャルズ VS JBエンジェルス】
これが、後世に受け継がれる長与千種イズムになるのです。
1995年、長与は「全日本女子プロレス」を退団し、KAORUと共に新団体「GAEA JAPAN」を設立。
ショー的要素のないアスリート志向が強いプロレスを展開し、「GAEA JAPAN」は女性ファンから高い支持を受けます。
2005年、長与の引退と所属選手の退団が重なります。
今後、参戦選手の大半がフリー選手に依存しなければならなくなる将来に、長与や所属選手、スタッフは『「GAEA JAPAN」を名乗る意味はない』と判断。
同年、黒字経営が続いていた中で、「GAEA JAPAN」は解散。
【「GAEA JAPAN」ヒストリー】
翌2006年、「GAEA JAPAN」一期生の里村明衣子が、仙台市を拠点とする地域密着型の新団体「センダイガールズプロレスリング」を設立。
同団体の設立にあたっては、「みちのくプロレス」の女子部設立を計画していた新崎人生からの誘いが背景にあります。
そのため、「センダイガールズプロレスリング」は、「みちのくプロレス」とは別団体ではあるものの、その女子部の側面も持ち合わせています。
2014年、長与は以下4つを理由に新団体「Marvelous」を設立。
①2009年に亡くなった、元「全日本女子プロレス」代表取締役会長の松永高志に「もう1度、横浜アリーナでやりたい」という遺言を託された
②2012年に亡くなった自身の父から死の直前、「もう1回お前のプロレスを見せてくれ」と言われた
③自身の元付き人だった北斗晶に「女子プロレスを何とかしてください」と言われ続けていた
④「GAEA JAPAN」時代の盟友で、約3年の闘病の末に復帰したKAORUに活躍の場を用意したかった
2022年現在、長与千種イズムを継ぐのは、「Marvelous」と「センダイガールズプロレスリング」の2団体です。
井上京子イズム
井上京子は、1988年に「全日本女子プロレス」でデビュー。
体重110キロ超えの巨体でありながら、見た目からは想像出来ないような抜群のスタミナ・スピード・テクニックを兼ね備え、人気を獲得します。
また、ヒールにも関わらず、凶器攻撃などのあくどいファイトを行わなかったため、男女両方のファンから人気を博します。
【井上京子 アジャ・コング VS イーグル沢井 沙羅ゆかり】
1997年、井上は「全日本女子プロレス」を退団。
井上の人気に目をつけた元ファミ通編集長の篠泰樹が、新団体の設立を画策。
同年、篠が代表となり、井上は団体の象徴として新団体「ネオ・ジャパン・レディース・プロレスリング」を設立。
1999年、男子プロレス団体の「DDTプロレスリング」と業務提携を締結するなど模索するも、経営不振に。
多くのスタッフが離脱します。
翌2000年、「ネオ・ジャパン・レディース・プロレスリング」は解散。
同年、井上は「ネオ・ジャパン・レディース・プロレスリング」に最後まで残った選手・スタッフらと新団体「NEO女子プロレス」を設立。
団体の代表は「ネオ・ジャパン・レディース・プロレスリング」のスタッフだった甲田哲也が務めます。
「NEO女子プロレス」では地方興行を控え、都市圏を中心に手堅く興行を開催。
離脱する選手も少なく「世界一平和な団体」と称されます。
2005年に「全日本女子プロレス」が解散して以降は、女子プロレス界を牽引する団体になります。
そんな中、生え抜きの相次ぐ欠場などが原因で、世代交代に苦慮。
2009年以降、観客動員に陰りが見え始めます。
翌2010年、井上の引退とともに「NEO女子プロレス」は解散。
【NEO女子プロレス総集編DVDのプロモーション動画】
翌2011年、井上は現役復帰し、新団体「ワールド女子プロレス・ディアナ」を設立。
井上は初めて運営会社の社長になります。
2022年現在、「ワールド女子プロレス・ディアナ」は健在です。
井上は、「本気のプロレス、本当のプロレス、本物のプロレス」を掲げて「ワールド女子プロレス・ディアナ」を立ち上げました。
ただし、それは他の女子プロレス団体が本気じゃない、本当ではない、本物ではないと否定しているのではありません。
井上は、球技が野球やサッカー、バレーなど様々な種目があるように、プロレスも様々なスタイルがあって当然と考えています。
ただ、どのプロレスも共通しているのは本気であること。
井上流の「本気」「本当」「本物」は、道場を構え、練習で強靭な身体を作り上げて、受け身がしっかり取れるようになることです。
それを徹底すれば、時代が変わっても、お客さんに本気が伝わる。
それが井上のプロレスに対する「本気」「本当」「本物」なのです。
それこそが、井上京子イズムなのです。
井上京子イズムの権化が、「ワールド女子プロレス・ディアナ」出身で、現在WWEで活躍するSARRAY(所属当時のリングネーム「Sareee」)なのではないでしょうか。
SARRAYは、プロレス以外にすることがない、というほど常にプロレスに本気です。
井上は、「全日本女子プロレス」に入団した理由を、あるインタビューで「世界一強い女になりたかった」と言っていました。
これが、井上京子イズムの原点なのかもしれません。
ロッシー小川イズム
ロッシー小川は、生粋のプロレスファンです。
「全日本女子プロレス」の会場に足繁く通っては、写真を撮っていました。
とあることがきっかけで、その写真が「全日本女子プロレス」のパンフレットに使用されます。
その後、「全日本女子プロレス」の専属カメラマンに。
1978年、広報として「全日本女子プロレス」に入社。
「ビューティ・ペア」やミミ萩原などのスター選手の担当を務めます。
1980年代には、「クラッシュギャルズ」のマネージャーも勤め上げます。
【ロッシー小川とクラッシュギャルズ】
1990年代には企画広報部長として、団体対抗戦を仕掛けるなど多くのアイデアをリング上に反映させ、”全女の仕掛け人”と称されるようになります。
斬新なアイデアで、「全日本女子プロレス」を名実ともにトップの団体にする立役者になりました。
そんな中、「全日本女子プロレス」の同族経営の悪い影響が、ロッシーに降りかかります。
これまでプロデューサー業務はロッシーに一任されていたが、ボブ矢沢や影ほたるなど、松永家の子息を交えた合議制に変更。
それにより、ロッシーと松永家の間で方向性の違いが生じます。
1997年、ロッシーは「全日本女子プロレス」の所属選手を引き連れて新団体「アルシオン」を設立。
「アルシオン」でも手腕を発揮します。
ルチャや総合格闘技の技術を取り入れ、多くの選手を輩出。
【1998年2月18日 アルシオン旗揚げ戦】
しかし、人気選手の離脱が続き経営不振に陥ります。
2003年に「アルシオン」は活動停止。
同年、「全日本女子プロレス」を退団してフリーで活動していた堀田祐美子が率いるユニット「Z-SPIRITS」が、「アルシオン」のメンバー数名と合流。
そして、新団体「メジャー女子プロレスAtoZ」を設立。
その頃、ロッシーは「JDスター女子プロレス」の外部スタッフに。
一方、「Z-SPIRITS」と合流しなかった元「アルシオン」のメンバー、吉田万里子、大向美智子、中西百重、AKINOの4人は、2004年にユニット「M's Style」を結成。
同年、「M's Style」を団体化。
2006年に解散。
同年、「メジャー女子プロレスAtoZ」も解散。
ロッシーは、「JDスター女子プロレス」が解散した2007年以降、団体を設立せず興行のプロデュースに携わります。
元「JDスター女子プロレス」の風香の自主興行「風香祭」や、覆面レスラーによる興行「仮面FIESTA」、グラビアアイドルの愛川ゆず季のプロレスデビュー興行「ゆずポン祭」などをプロデュースし、成功を収めます。
新団体設立の機運が高まり、ロッシーは2011年に新団体「スターダム」を設立。
設立からわずか半年で、女子プロレス界で最も人気がある団体に成長させます。
2015年、「スターダム」を退団した高橋奈七永と夏樹☆たいようを中心に新団体「SEAdLINNNG」が設立。
同年、「スターダム」傘下の芸能事務所だった「スターダムプロモーション」が「Beginningプロモーション」に改称したのち、女優とレスリングを融合した新団体「Actwres girl'Z(アクトレスガールズ)」を設立。
生え抜き選手のみで興行を開催します。
のちにスターダムで活躍する中野たむ、万喜なつみ(現:なつぽい)、有田ひめか(現:ひめか)など、多くの選手を輩出。
2019年、「Actwres girl'Z」は「Beginning」と「Color's」の2団体化。
しかし2022年、諸事情により「Beginning」と「Color's」の2団体は解散。
現在、ロッシー小川イズムを受け継ぐのは、「スターダム」と「SEAdLINNNG」の2団体です。
「スターダム」は、名実ともにナンバーワンの女子プロレス団体ですが、2015年に起きた世Ⅳ虎の安川惡斗へのプロレスの域を超えた試合中の暴行、通称「女子プロレス顔面殴打事件」や、2020年の木村花の誹謗中傷問題など、かねてから選手管理体制が問題視されていました。
【女子プロレス顔面殴打事件】
しかし、現在はブシロード体制になり、選手管理体制が改善され、ロッシーはプロデュース業に専念しています。
2021年度レスリング・オブザーバー大賞のベスト・ブッカー部門2位にロッシーがランキングされています。
私的観点から言っても、新日本プロレスのマッチメイカーを務めている外道をはるかに上回るマッチメイカー力だと思います。
このマッチメイカー力の根底にあるものは何なのでしょうか。
ロッシーは某WEBメディアで、プロレスへの飽くなき追求心について語っています。
「いつも不安ですよ。今日は(お客さんが)満足してくれたかな、って。プロレスって思い入れで成り立つものですから、100人いれば100通りの答えがあるんですよ。その人がどこで引っかかるかはわからない。だから、我々はやり続けるしかないんです。」
これが、マッチメイカー力の根底にあるものなのではないでしょうか。
「スターダム」の選手たちにも、ロッシーのマッチメイカー力が波及していることが見受けられます。
例えば、敗者髪切りマッチを提案・実行した中野たむや、敗者ユニット強制移動マッチを提案・実行して刀羅ナツコなどが挙げられます。
スターダムの選手たちにも、ロッシー小川イズムは色濃く受け継がれているのです。
【ワンダー王座戦&敗者髪切りマッチ 中野たむVSジュリア】
【敗者ユニット強制移動マッチ】
その他
では、「長与千種イズム」「井上京子イズム」「ロッシー小川イズム」以外の全女系の歴史を見ていきましょう。
1995年、芸能プロダクションの吉本興行が中国進出を計画していました。
そこで、言葉を必要とせず、ブームになったことがある女子プロレスに目をつけます。
吉本興行は、中国進出の足掛かりに女子プロレス団体「吉本女子プロレスJd'」を設立。
「全日本女子プロレス」のジャガー横田を、団体の了承のもと「吉本女子プロレスJd'」に移籍させます。
2002年、芸能プロダクションのホリプロが、歌とダンス、プロレスを融合させたスボーツエンターテイメントを目的とした女子プロレス団体「ダリアンガールズ」を設立。
元「全日本女子プロレス」の伊藤薫をコーチに招きます。
【「ダリアンガールズ」の試合動画】
翌2003年、「吉本女子プロレスJd'」の経営不振が続き、吉本興業は経営権をJオフィスグループに譲渡。
団体名を「JDスター女子プロレス」に改名します。
翌2004年、「ダリアンガールズ」が自然消滅。
場内実況放送を取り入れるなど、プロレスファン以外でも楽しめるような工夫を凝らすものの、ファンが定着せず僅か2年で活動を終えます。
翌2005年、伊藤薫が養成所「伊藤薫プロレス教室」を設立。
同年、相次ぐ所属選手の流出や地上波放送の終了などで、かつての勢いを失っていた「全日本女子プロレス」が、37年の歴史の幕を閉じます。
同年、男子プロレスの「プロレスリングZERO1-MAX」が女子部「プロレスリングSUN」を設立。
所属選手・スタッフは全て元「全日本女子プロレス」です。
そのため、「全日本女子プロレス」の後続団体と捉えることが出来ます。
2006年、「伊藤薫プロレス教室」のよる主催興行「伊藤道場」の旗揚げ戦を開催。
2007年、新会社に移っても経営不振が続いた「JDスター女子プロレス」が解散。
2009年、「プロレスリングSUN」が運営会社のファースト・オン・ステージの方針により解散。
翌2010年、「伊藤薫プロレス教室」が、人材不足により解散。
翌2011年、コンサルタントの玉城杏経が「会いに行く劇場型エンターテイメント」を旗印に新団体「REINA女子プロレス」を設立。
「全日本女子プロレス」出身で元「メジャー女子プロレスAtoZ」の堀田祐美子を中心に展開していきます。
2017年、コンサルタントの玉城は、名古屋を拠点とする新団体「名古屋ドリームガールズプロレスリング」を設立。
翌2018年、理由を明らかにしないまま「REINA女子プロレス」「名古屋ドリームガールズプロレスリング」が活動停止
これにより、全女系は「長与千種イズム」「井上京子イズム」「ロッシー小川イズム」のみが残る結果に。
ジャパン女子系
ジャパン女子系の始まりは、1986年に遡ります。
当時、女子プロレスとおニャン子クラブの2つのブームが起きていました。
それに目をつけた芸能プロダクションのボンド企画が「プロレス版おニャン子クラブ」をコンセプトに、女子プロレス団体「ジャパン女子プロレス」を設立。
アドバイザーに秋元康、コーチに新日本プロレスの山本小鉄を招へい。
「ジャパン女子プロレス」は、「全日本女子プロレス」との差別化を図るため、空手などの格闘技をプロレスに融合させ、格闘技路線を推し進めていきます。
1991年、「ジャパン女子プロレス」は、団体・選手間で軋轢が生じます。
事の発端は、アメリカ遠征を申し出た風間ルミに対し、団体側が解雇を突きつけたことが始まりです。
団体の態度に業を煮やした神取忍は、来年度の契約更新を拒否。
元々、「ジャパン女子プロレス」には経営不安が続いてため、団体と選手の間で更なる溝が深まります。
両者の溝は埋まることがなく、翌1992年に「ジャパン女子プロレス」は解散。
キューティ鈴木と尾崎魔弓、ボリショイ・キッド(現:コマンド・ボリショイ)らは、新団体「JWP女子プロレス」を設立。
【「JWP女子プロレス」の試合動画】
一方、風間ルミと神取忍、二上見紀子(現:GAMI)らは、新団体「LLPW」を設立。
【「LLPW」の試合動画】
2011年、「LLPW」は新道場「LLPW-Xプロレスバンク」を設立。
それに伴い、団体名を「LLPW-X」に改称。
2017年、「JWP女子プロレス」は運営会社との契約が更新されなかったため、コマンド・ボリショイが中心となり新たな団体「PURE-J女子プロレス」として再出発します。
2022年現在、ジャパン女子系は「LLPW-X」と「PURE-J女子プロレス」の2団体です。
全女・ジャパン女子ミックス
全女・ジャパン女子ミックスの始まりは、1996年です。
全女系に当たる「GAEA JAPAN」の永島千佳世とジャガー佐藤が、ジャパン女子系に当たる「JWP女子プロレス」の尾崎魔弓に弟子入りを志願したことが始まりです。
尾崎は、永島とジャガーとともにヒールユニット「OZアカデミー」を結成。
「JWP女子プロレス」と「GAEA JAPAN」の団体の垣根を超えた活動を行います。
【OZアカデミー VS ラス・カチョ―ラス・オリエンタレス】
2005年に主戦場の1つ「GAEA JAPAN」が解散したことを受け、翌2006年に「OZアカデミー」を団体化。
翌2007年、ジャパン女子系の「LLPW」と、全女系の「メジャー女子プロレスAtoZ」で活躍していたGAMIが新団体「プロレスリングWAVE」を設立。
2010年、GAMIが大阪を拠点とする新団体「OSAKA女子プロレス」を設立。
2017年、「OSAKA女子プロレス」は活動停止。
2022年現在、全女・ジャパン女子ミックスは「OZアカデミー」と「プロレスリングWAVE」の2団体です。
さくらえみ系
さくらえみは、1995年に男子プロレス団体の「I.W.A JAPAN」でデビュー。
一風変わったファイトスタイルでカルトヒロインと呼ばれるようになります。
「JWP女子プロレス」や「全日本女子プロレス」での活動を経て、1999年に「I.W.A JAPAN」を退団。
同年、男子プロレス団体の「FMW」に入団。
2002年、「FMW」が倒産したためフリーに。
2003年、さくらは女子プロレス団体「我闘姑娘(がとうくうにゃん)」を設立。
「我闘姑娘」は「全日本女子プロレス」あるいは「ジャパン女子プロレス」の流れを汲まないため、女子プロレス界で異彩を放ちます。
「我闘姑娘」に移籍する選手もおらず、所属選手は全て生え抜き選手です。
小中学生レスラーや萌え系美形レスラーなど、個性的なレスラーが多く「癒し系プロレス」と呼ばれるようになります。
2006年、さくらと選手たちとの間に意見の食い違いが生じ、自ら「我闘姑娘」を退団。
その後、ユニット「アイスリボン軍」を結成。
同年、「アイスリボン軍」を団体化した「アイスリボン」を設立
【アイスリボン時代のさくらえみ】
2007年、「我闘姑娘」は、所属選手の退団・引退が相次いだため、解散。
2012年、さくらは「アイスリボン」を退団。
2013年、アイスリボンの共同事業として、長野県を拠点とする新団体「信州ガールズプロレスリング」が設立されます。
同年、さくらは新団体「プロレスリング我闘雲舞(がとうむうぶ)」を設立。
診療所の一部を間借りした会場「市ヶ谷チョコレート広場」でマットプロレスを中心に展開したり、コロナ禍ではインターネット配信興行「チョコプロ」を開催したり、独自路線をまい進していきます。
2022年現在、さくらえみ系は「アイスリボン」「プロレスリング我闘雲舞」「信州ガールズプロレスリング」の3団体です。
DDT系
DDT系は、2012年に男子プロレス団体の「DDTプロレスリング」が、女子プロレス事業部として「東京女子プロレス」を設立することを発表したことが始まりです。
「東京女子プロレス」の代表は、元「NEO女子プロレス」社長で、「アイスリボン」でマッチメイカーの経験がある甲田哲也が務めます。
2022年現在、DDT系は「東京女子プロレス」のみですが、DDTグループの「ガンバレ☆プロレス」内に数名の女子選手が所属し活躍しています。
スペル・デルフィン系
スペル・デルフィンは、ウルティモ・ドラゴン、ザ・グレート・サスケに次ぐジャパニーズ・ルチャの立役者です。
デルフィンは1989年、オランダでデビュー。
男子プロレス団体の「FMW」「ユニバーサル・プロレスリング」「みちのくプロレス」など多くの団体を渡り歩き、メキシコでも活躍。
2000年以降は、男子プロレス団体の「大阪プロレス」「沖縄プロレス」「海鮮プロレス」といった地域密着型のプロレス団体を旗揚げします。
【沖縄プロレス時代のスペル・デルフィン】
2021年、デルフィンは旧知の仲であったお笑いコンビ「シンデレラエキスプレス」の渡辺裕薫と、かねてから構想を練っていたYoutube配信専門のプロレス団体の設立に動きます。
同年、渡辺が所属する芸能プロダクションの松竹芸能の協力を得て、新団体「2point5女子プロレス」を設立。
デルフィンは、初めて女子プロレス団体を手掛けます。