2016年4月の両国大会、新日本プロレスに衝撃的な登場を果たしてから1年7ヶ月。
期待されながらも未だにシングルベルトを手中にしていない。それどころか一度も挑戦出来ていないSANADA。
実力・技術・ヴィジュアルなど、スター性を感じさせる要素を兼ね備えた男はなぜチャンピオンになれないのでしょうか。
「SANADAよ!しっかりしろ!」
そんなメッセージも込めながら僕はSANADAのプロレス人生や人となりを本記事で振り返るつもりでした。
しかし、彼の経歴を書き進める中で見えてきたのはSANADA(真田聖也)の苦悩と葛藤を繰り返すレスラー人生だったのです。
”武藤塾”合格でプロレスラーの道へ
遡ること2005年11月。
17歳の真田聖也は後楽園ホールで行なわれた新日本プロレス公開入門テストを受けていました
その日は、内藤哲也と吉橋伸雄(現・YOSHI-HASHI)もいたのです。3人の中で、新日本プロレスの門をくぐることが出来たのは内藤だけでした。
闘魂三銃士のファンだった、真田は次のチャンスを武藤敬司率いる全日本プロレスに求めたのです。
翌2006年1月、”武藤塾”にて開かれた第1回オーディションに参加。
そこで武藤は真田にスター性を感じました。結果は見事合格、プロレスラーとしての道を歩むことになります。
ちなみに、真田と同じくそのテストに合格したメンバーにBUSHIがいました。
当時、三冠王者として全盛期を迎えていた小島聡の付き人を務めながら翌2007年3月、真田は中嶋勝彦&T28(現・BUSHI)を相手にタッグマッチでデビュー。
SANADAとBUSHIは、全日本プロレスで苦楽を共にした同期であり、袂を分かった後も連絡を取り合う仲だったのです。
真田に感じるスター性
SANADAが出世するきっかけとなった試合は、2011年の「チャンピオン・カーニバル」。
この年の春の祭典で、真田はチャンピオン・カーニバル3連覇を賭けた格上である鈴木みのるを”投げっ放しドラゴンスープレックス”でフォール勝ちを収め、優勝決定戦に駒を進めました。
これはデビューして、僅か4年後の真田が起こした大快挙だったのです。
そして、優勝決定戦の相手は全日本プロレスにとっての”外敵”永田裕志。
何としても外敵に支配されてはいけないというシチュエーションでしたが、当時23歳若獅子の力は及ばず、永田に引導を渡す結果となってしまいました。
当日、永田はある取材でこのように真田を称していたのです。
「はっきり言ってね、運動神経のよさでいえば棚橋より上ですよ。末恐ろしいというか。足りないものはキャリアだけ。彼は内藤と一緒にウチの入門テスト受けたらしいですね。獲っておけばよかったなかって(笑)。そこを一番にかんじましたね」
スター性を感じていたのは、武藤だけでなく永田もだったのです。
のちに、真田は”シャイニング・スター”と呼ばれるようになりました。
超えられなかったグレート・ムタという壁
2013年、真田は全日本プロレスを退団。
同年9月、同時期に退団をした武藤が新設した団体「WRESTLE-1(以下、W-1)」に旗揚げから参戦しました。
「世界から通用するレスラーになれ」という武藤の教えのもと、提携先のアメリカのTNAに活躍の場を広げます。
AJスタイルズなどの強豪達に揉まれながら、世界に通じるレスターへの階段を着々と登っていったのです。
■動画「AJスタイルズ VS 真田聖也」
https://www.youtube.com/watch?v=Z0xOmTI5CCg
翌2014年3月、日本人初のTNA・Xディビジョン王者となった真田は、ベルトを引っ提げTNAに乗り込み、”SANADA”のリングネームで17連続防衛記録をやってのけました。
この活躍は、いよいよ真田時代の到来が近いことを示しているように見えたのです。
同年7月、Xディビジョン王者として真田は日本に凱旋し、真田旋風を起こすため、超えなければならない存在グレート・ムタ(武藤)の挑戦を受けたのでした。
ところが、準備万端だったはずの真田は、運命に翻弄されてしまいます。
”ムタワールド”の飲み込まれ、毒霧からのムーンサルトプレスで葬り去られてしまったのです。
■動画「グレートムタ VS 真田聖也」
「このままW-1に頼っていても、ムタは超えられない。1人でメシ食っていかないとダメですね。」
グレート・ムタという壁を超えられなかった真田が導き出した答えでした。
自分探しの旅に出た男が求めた場所は新日本プロレス
「プロレスって答えがないでしょう?それはどの業界にも当てはまるのかもしれないけど、見つからないですね。ただ、ベルトが懸かっていてもいなくても、ムタには及ばなかったというのが事実。そう考えると、自分の存在感なんですよ。ベルトに頼らなくても、自分のカラーを確立して存在感を出して認めなきゃダメなんです。」
そう言い残した真田は、TNAとW-1を退団。安住の地を捨て、自分探しの旅に出たのです。
翌2015年7月、ジェフ・ジャレット主宰のGFWに参戦。当時、海外遠征中の渡辺高章(現・EVIL)とタッグ結成をします。
カール・アンダーソン&ドク・ギャローズ組と熱戦を繰り広げます。
その後、THE CRASH等のメキシコのプロレス団体を経て、同年12月には国内に戻り東京愚連隊に参戦、翌2017年3月には大日本プロレスの一騎当千に参加する等、様々な団体を渡り歩きました。
そして、2016年4月の両国にSANADAは登場したのです。
内藤哲也、T28(現・BUSHI)、渡辺高章(現・EVIL)との点が線に繋がった瞬間でした。
SANADAはロス・インゴベルナブレス・デ・ハポン入りした理由についてこのように語っています。
ロスインゴ入りの経緯についてSANADAは「選手として一番プロレス界で輝いているところに行くのは必然。考えてやった行動じゃない。今までのイメージの払拭したい」
参照元:https://www.tokyo-sports.co.jp/prores/mens_prores/530985/
自分の存在感を輝かせるために選んだユニットがロス・インゴベルナブレス・デ・ハポンだったのです。
周りに期待されているのにも関わらず、100%応える結果が出せない己の不甲斐なさを払拭するために選んだのが新日本プロレスという地なのでしょう。
ところが、神様のイタズラなのか、SANADAはここでもチャンスをものに出来ません。
同年5月に実質、次期IWGPヘビーへの挑戦権が懸かっているシングルマッチでオカダ・カズチカに敗戦
同年11月には、事実上の次期IWGPインターコンチネンタルへの挑戦を懸けた戦いでも棚橋弘至に黒星。
ここぞという時に勝てないのです。
SANADAの苦悩と葛藤
絶対王者のオカダに劣ることのない身体能力の高さ、肉体、駆け引き、空中戦、グラウンドテクニック、さらにスターには欠かせない立ち振舞いを兼ね備えている。
ジェフジャレットに「AJスタイルズと真田聖也なら無限大な戦いを見せてくれる」と言わしめたことさえあります。
2010年の2月には新日本プロレスにて開催されたベンチプレスコンテストで、真田は堂々の2位に輝いたこともあるのです。
それにも関わらず、結果だけはついてこないのです。
「誰も知らない、両国をシーンとさせた俺が、オカダという絶対的な存在を踏み台にしてやる。今のうちから見といた方がいい」
こう豪語したが、それに匹敵するほどの活躍は見せれていません。
輝かしい経歴や周りからの期待、理想と現実の差にSANADAの苦悩と葛藤は、求めていたはずの新日本プロレスでも続いていったのです。
旅を通して探していた答えがやっと見つかったのかもしれない
そんな中、翌2017年のG1クライマックス開幕前の記者会見でSANADAはこのように発言しています。
「このG1頂点狙います。」
そしてG1最中には、こう言い放ったのです。
「そもそも、俺はこのG1、勝とうが負けようがどっちでもいいと思ってるんだ。1つだけ見つけたいのは、新しいSANADAだけかな」
SANADAを経歴を辿って分かったことは、どちらの発言も本音だということです。
『自分の存在感を示すためにG1で頂点を目指すのは1つの方法。しかし「頂点を取る」と「自分の存在感を示す」は必ずしもイコールではない』
というのがSANADAの真意なのではないでしょうか。
さらに、注目すべきは「1つだけ見つけたのは新しいSANADAだけかな」という言葉です。
もしかしたら、旅を通して探していた答えがやっと見つかったのかもしれません。
もしそうならば、SANADAが本当の意味での”シャイニング・スター”になる日が、遠くない将来訪れるのではないでしょうか。
”今宵の月のように”輝く時は瞬間を夢見て
2006年にデビューして11年。スターならではの苦労とも呼べる時期を過ごしてきたSANADAに対し、僕はある曲の歌詞が頭を過ります。
その曲とはエレファントカシマシの”今宵の月のように”です。
くだらねえとつぶやいて
醒めたつらして歩く
いつの日か輝くだろう
あふれる熱い涙いつまでも続くのか
吐き捨てて寝転んだ
俺もまた輝くだろう
今宵の月のように
期待に答えられず、くだらねぇと自暴自棄になりそう時もあったでしょう。
肝心な時にチャンスを逃し吐き捨てた言葉もあったかもしれません。
それでも諦めず、”今宵の月のように”輝く瞬間を夢見て歩んできたのではないでしょうか。
答えを見つけたSANADAが真の”シャイニング・スター”になる未来を信じて僕は待っています。
【次回予告】
次回はBUSHIのマスク愛に追っていきます。
「BUSHI(T28)のマスク愛には、BUSHIの”ある想い”が詰まっていた!」